春夜


 綺麗な桜と誰もが言うから、桜は綺麗なのだと覚えた。
 もうずっと幼い頃から、何の疑問もなく。
 心からこの花を綺麗だと思ったことがあるだろうかと、今夜ふと思って、耳を澄ますように自分に問いかけてみたら、それは一気に拡大した。
 いつも胸の内はざわめいていたんじゃないのか。
 不安と緊張と期待と感動が混ざったような気持ちは、桜の樹にぶつかる風のように不気味に音をたてる。

 音は大きくなる。
 他の音が聞こえなくなるほどに。
 他の気持ちが飲み込まれるほどに。

 桜を散らして、舞い落ちた花びらを巻き上げて、奪うように去っていく風は、丁寧に、ざわめきだけは置いていく。
 しつこく残るそれは、まるで春の夜の寒さのようだと思う。

     ***

 街が少し浮き足立って、細かい事務処理が増えて、ほんの少し忙しくなる季節だ。
 寝る前に一杯、と部屋の傍の縁側に座って酒を口にする。
 外壁の向こうに見える桜の樹は、そろそろつぼみをつけようかという頃だと気づいて、そろおそろ誰かに花見の段取りを組ませなければと思う。
 隣にいる役に立たない場所取り役は、今年はまともに働くだろうか。
 視線をやると、山崎は首を傾げるようにして空を見上げている。
 月が明るい。
 満月でもないのに、地面には薄く影が落ちている。
「髪が伸びたな」
「俺ですか?」
「俺もお前も」
「春が来ますしね、少しうっとうしく感じるでしょう」
 散髪したいですね、と山崎が言う。
 そうだな、と俺は返す。
 山崎が俺に呼びかける時の、ね、という発音が俺は割と好きだ。
 言われて腹が立つセリフも、その語尾で曖昧にされてしまうこともある。
「山崎、お前桜好きか」
「桜ですか? あんまり、考えたことないですけど、花はよくわからないです」
「春は?」
 問いかけに逡巡して、うーんと山崎が唸る。
「好きかなあ、でも夏の方が好きです」
「そうか」
「ずいぶんと、落ち着かないんですね」
 唐突にそう言われ、今度は俺が逡巡する。
 それがあからさまに態度に出てしまったことに気づいて、慌てて取り繕おうとして視線が泳ぐ。
 山崎は気持ち悪い早さで俺のことを理解する。黙ってろと思う時も多いけれど、時々、本当に時々、その言葉に助けられることがあった。
 如何ともしがたい感情も、名前をつけられるというだけで少し収まるものだ。
 このざわざわした気持ちを、落ち着かないと称しただけで、肩の力が若干抜ける。
 いつもより口数が増えて、指摘されたことに動揺して、確かに落ち着きがない。
「……別に」
 そう呟くと、山崎は聞こえたのか聞こえないのか、黙って酒を一口飲んだ。
「春が終わったら、副長の誕生日ですね」
「五月はまだ春だろう」
「五月はもう初夏でしょう」
 あっという間に暑くなって、隊服が辛くなるのなんてすぐですよ。
「だから春は、すぐ終わります」
 そういうと突然、山崎が立ち上がって俺を見下ろした。
「な……」
 何だよ、と言う前に山崎の顔が近づき、腰から背中へ手が回された。反対の手は俺の脚の下に滑り込む。
 その次の瞬間には、俺は持ち上げられ山崎の腕の中に無理やりに収まる形になった。
「今一瞬、ちゅーするかと思いました?」
「思ってねえよ!」
 ていうか何なんだこれは、急に、何なんだ。
「何となくです」
「何なんだ、お前こんな力あったっけ、いやそうじゃなくて」
「こういうのはバランスですよ」
「降ろせ」
「まあまあ」
 よいしょ、とかけ声をかけて、山崎は縁側に上がった。履物が上手く脱げずに、庭へ散らばる。そのまま歩くと、ふたり分の重みでいつもよりも足元が軋む音が響いて、恥ずかしさに拍車がかかった。
「どどこに行くんだ」
「副長の部屋ですよ?」
「降ろせ!」
 暴れないでください!
 耳元で出された大声に、思わず黙ってしまう。急に、浮いた足が自分のものではないような感覚に襲われる。
「部屋に着いたら、降ろしますって」
 そう言っている間に部屋の前に着き、入るとすぐ俺は敷いてあった布団へ降ろされた。
 本当に力で持ち上げていたわけではないのか、お世辞にも優しい降ろし方とは言えなくて、背中を打ち一瞬息が止まる。
 掛け布団をかけられて、ぽんぽんと胸の辺りを叩かれるまで俺はじっと黙っていた。
「気が済んだかよ」
 口に出した言葉は、意味のない強がりだと自分で思った。
 何を強がっているかわからないし、第一、強がれていない。
「あなたが落ち着かなくて、どうしようもないなら、何かするだけです」
「どうしようもないなんて言ってない」
 それならそれで、たまには変わったことがあってもいいじゃないですか。
 そう言って、山崎は笑った。

     ***

 きっと山崎はやっぱり解っていて、そのまま俺の隣に横になった。
 抱っこされて添い寝をされて、俺はざわめいたまま眠った。
 布団の上から感じる体温は、俺が全部飲み込まれないための妨げになっているのかもしれない。
 そう思うと同時に、山崎が何も掛けずに眠っていることに気がついて、布団の中に招き入れる。
 冷たい空気に、ばさばさと布が鳴る。
 山崎の手を握るとひんやりと冷たくて、当たった脚はもっと冷たくて、思わず額を頬に寄せた。頬は更に冷たかった。
 まだ昼間も暖かいとは言えなくて、もちろん桜は咲いてさえいない。
 それなのにまるで本当に春の終わりの夜がくるかのように、夜明けに近づいていく。
 春が終わればまた歳をとるのに、いつまでも子どもみたいだ。

 駆け引きのような会話をして、騙すように騙されるように、抱き合う夜がある。
 触れて触れられて、そんな夜は身体の底から熱くなって、心臓は一晩中早く早く鳴っている。
 悔しくて頭にくるけれど大事で、時折欲しくてたまらなくなるモノだ。
 それこそ、どうしようもなく。
 そんな気にもなれない春の夜に、ざわめきを抱えながらも不思議に穏やかに眠ることができるとは、思っていなかった。
 抱きかかえられたのには、あんまり意味はなかったと思うけど。
 まあ、許してやってもいい。
 山崎の顔にかかる長くなった前髪に、寄せた頬がくすぐられて、顔が緩む。
 あったかい。
 さっきよりも近くに感じる温もりと、すーすーと聞こえる寝息に誘われて、俺はまたゆるゆると眠りに落ちた。
 朝方に、山崎のぽかんと口を開いたおかしな表情を見て笑うまで、多分同じようにすーすーと寝息をたてて眠っていた。